「私の新しい発見💡」4
今週の「新しい発見💡」をご紹介します。~犬山城~
こんにちは、新入社員の一柳です!今週は、私の住んでいるところから約15分の場所にある犬山城についてご紹介します。私は、学生時代から歴史が苦手で日本史が大嫌いでした。そのことから日本の歴史建造物や国宝指定されたお城などに興味がなく、近くにお城があるのにも関わらず、今まで一度も入ったことがなかったです💦せっかくこのような「新しい発見」をテーマにしたブログを書いているので、詳しく学んでみようと思いました。
総延面積 698.775㎡
天守の形式 望楼型
外観 三重 高さ18.793m 内部4階 地下2階
【犬山城の築城】
天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。
【秀吉の入城】
天正10年(1582)「本能寺の変」で織田信長が倒れて後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に秀吉対徳川家康・織田信長の次男信雄との間で「小牧・長久手の戦い」がはじまりました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣、中川定成でしたが伊勢へいって不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、落城しました。後に秀吉が入城しました。以後、小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続きましたが、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されました。その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城します。
【濃尾大地震で天守閣が半壊】
明治24年(1891)、マグニチュード8.4の濃尾大地震で天守は大きな被害に見舞われました。同28年、愛知県から修復を条件に旧城主である成瀬氏に譲渡され、多くの市民からの義援金により修復工事が行われました。その後、昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで天守の破損が激しくなったため、全面的な解体修理工事が行われました。
【国宝に指定される】
昭和10年、国宝に指定されました。昭和27年規則改正にともない国宝に再指定されました。昭和40年(1965)解体修理完了。全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。
1階には石落としの間がありました。敵が攻めてきたときにこの場所から石を落として足封じするそうです。
同じく1階に上段の間があり、その中に武者かくしの間がありました。城主の座居の際、この奥の部屋に護衛の武士が隠れていたそうです。
(犬山城パンフレット参考)
犬山城の中に実際に入ったことで、歴史や間取りの工夫が詳しく分かり、多くの発見💡がありました。すごく興味深く面白かったです。今までは、お城に興味がなく、入ることもなかったのですが、今後は他のお城にも行ってみたいと思います!
犬山城の天守閣から見た景色は、天気も良くすごく綺麗でした!(柵が低く、床もギシギシするので高所恐怖症の方は注意⚠です)
ここまで読んでくださりありがとうございました😌
来週も視野を広げて生活し、「新しい発見💡」を紹介していきたいと思います🌟!
犬山城の天守閣はなかなかの高度感ですよね(笑)。犬山は、明治村があったりリトルワールドがあったりとバラエティに富んでいてとても楽しいところですが、そんな中でも私は「桃太郎神社」が一番好きです。
みなさん、桃太郎神社をご存じですね(笑)
先日、あの若者でにぎやかな城下町で、桃太郎アイスいただきました
ちょいと恥ずかしいかったです(*_*;
以前のイメージと変わり、ホント歴史と食べ歩きを楽しめる街になっていました(^^♪
私も新しい発見でした!
私も昨年、初めて行きました。一緒に行った友人が高所恐怖症だったため、大騒ぎでしたよw
前回のブログ記事に出てきたウイスキー(実は『知多』も有名)の次は犬山城。
犬山城と言えば、隣りのホテルインディゴ犬山有楽苑も、
名古屋を「世界の最も素晴らしい場所50」に入れた一つの要因でしたよね。
ってことは次は『ジブリ』???
犬山城行ったことないです!天守閣からの眺めが本当に綺麗ですね~!
そしてトップの写真からは大人気なのが伺えます。この投稿を見て行ってみたくなりました♪